1.英雄の誕生
弘治元年(1555年)、当時は戦国時代で、今からおよそ450年も前、 日本全国各地で争いが続いていました。特に、下剋上といって、 身分の下の者が身分の上の者をたおしてその地位を奪うことが盛んに行われていました。 そんな中で、ここ上田庄坂戸城では、城主に一人の男の子が生まれました。 名前は卯之松、大きくなって喜平次顕景といい、さらに後には、上杉景勝となるこの物語の 主人公の一人です。父は名門長尾家の血すじを引く坂戸城主長尾政景です。 そして、母は上杉謙信の姉仙洞院です。当時は、代々男子が家を継ぐことになっており、 なにごとも「お家のため」というくらい、家の血すじを大切にしていた時代でしたので、 男子が生まれたことはなによりの喜びでした。 当時、上田庄というのは、ほぼ現在の南魚沼郡のことです。 人々はみんな、「お殿様に男の子ができたそうだ。めでたいことだ。」と大喜びでした。
永禄三年(1560年)、同じ上田庄坂戸城下の樋口家にも一人の男子が生まれました。 小さい時の名前を与六といいました。後に名将直江兼続となって景勝とともに名声を 天下に響かせることになるのです。 父は坂戸城主長尾政景の家臣で、樋口惣右衛門兼豊といい、まきやたき木などをあつかう、 身分はあまり高くない武士であったといわれており、与六は、そこの長男として生まれました。 このころは、武士と農民との身分のちがいがはっきりしている者は少なく、ふだんは農業 をしていて、いざ戦いとなると武士になって弓矢を持って出かける者が多いころでした。 ですから、与六も当然、幼い時から田畑へ出て農業の手伝いをしていました。 喜平次の父政景は、喜平次(景勝)が生まれる4年ほど前の天文20年(1551年) には、長尾景虎(謙信)と争い、弟を人質にさし出して仲直りをしています。 また、喜平次が2才の時には、父は上田庄の武士をひきつれて信濃(長野県)へせめて行って、 武田軍とも戦っています。 一方、与六(兼続)が生まれた年の5月には、織田信長が桶狭間で今川義元の大軍をやぶっていますし、 謙信は沼田城をおとしいれ、厩橋城(前橋市)へせめ入っています。 また、よく年の永禄4年(1567年)には、有名な、上杉謙信と武田信玄の川中島の合戦がありました。 このような戦乱の世に生まれ、その中で育っていった二人ですから、武士としての強さ やたくましさが身についていったのも当然のことといえるでしょう。
2.ふたりの幼少時代
喜平次は幼い時から、たびたび、父政景の出陣を母とともに見送りました。 そして、その勇ましい姿に小さな胸をときめかしていました。 城へ帰って来た時はまた、母と一緒に、日焼けした父のたくましい姿を見て、 無事を喜ぶと同時に、武将としてのおおしさを感じたものでした。 また、母仙洞院が、留守を守る城主の妻として、出陣した武士たちの留守家族に、 なにくれとなく心をくばり、はげましてやっているすがたも見てきました。 それらのことが、知らず知らずの間に、景勝の名将としての人柄をつくり上けて 行ったのかもしれません。当時、田畑の仕事は、すべて人や牛や馬のカにたより、 今の機械化された農業とはくらべものにならないほど重労働だったのです。 ですから、男の子も、7・8才になると、もう大事な働き手として仕事にたずさわる ようになりました。 与六も7・8才ごろから、一生懸命で農作業にたずさわってきました。 馬のはなっとりや田植えをはじめ、畑の草取り、秋のいねかり、冬の道ふみと、 短い期間ではありましたが、一通りの経験をしてきました。 農業に詳しくなり、農民をいつくしみ、大切にする政治をするようになったのも、 この体験がもとになったのではないかと言われています。 たとえば、米の飯で作った大人の頭ほどもあるようなおにぎりにかぶりついたことや、 女の人のおにぎりには米だけでなくて「かて」(量をふやすために野菜などを入れる)が まじっていたことなど、よほど印象深かったのでしょう。 与六は、背が高く、度胸もあり、話すことも上手でした。その上、男ぶりもよく、頭もよく、 くらべるものもないほどすばらしい少年だったと言われています。 父につれられて、与六はしばしばお城へも出入りすることがあったのでしょう。 いち早く、この少年のなみなみならぬ才能を見こんだのは、景勝の母の山洞院でした。 喜平次が15・6才、与六が9才か10才ごろのことです。 こうして与六は喜平次の小姓(主君のそばにつかえて用事をする子供)として お城へあがることになったのです。
一方、喜平次は、城主の若君ではあっても、与大の利ロでりりしい若者ぶりに好感をいだき、 かわいい弟に対するような気持ちで接し、与六は家臣であり小姓という身分ではあっても、 いつしか、慕わしい兄に対するような気持ちをいだくようになっていきました。 主君と家臣の間柄でありながら兄弟のような深い信頼感にささえられた、 しょうがい変わることのない固いむすびつきは、この時からめばえていったのでしょう。 喜平次には二人の女のきょうだいがいました。母君といっしょにくらしていましたが、 時には、喜平次のもとへも訪ねていくことがありました。そして、そんな時には当然、 小姓与六に合うこともあったでしょう。 だれからも好感を持たれる与六ですから、姫君たちの目にも、感じのいい少年として うつったにちがいありません。
当時のようすを想像しながら、六日町民謡では妹に見立てて、次のように歌っています。 与六をお六、姫君を桂姫と名づけています。
「お六甚句」
送りましょうか 送られましょうか
寺が鼻まで 時雨にぬれて
昔やお六と 昔やお六と桂姫
月が出たぞえ 木影に入ろか
ままよ渡ろか 坂戸の橋を
お六甚句で お六甚句で水鏡
吹雪く窓なりゃ 届かぬ想い
心細かな 縮のあやを
織って着せたや 織って着せた主が肩
百姓大名じゃ 兼続様は
尻をからげて 田草もとりゃる
峰にゃ松風 峰にゃ松風玉日和
血気さかんな少年たちが、お城の荒武者たちに武芸の技を仕こまれたにちがいありません。 時には魚野川で泳ぎ、時には坂戸山のふもとでけものを追いかけたこともあったでしょう。 また、読み書きを学び学問にはげんだことでしょう。 こうした日々を過ごし、二人の信頼の気持ちはますます深くなっていったのです。
3.坂戸城の歴史
景勝、兼続が少年時代をすごした坂戸城は、上田庄をおさめていた長尾氏が城造りを始めた といわれています。このころ坂戸城の近くには六万騎・寺尾・君帰(六日町)、 樺野沢(塩沢町)などに山城があり、また、その地をおさめていた豪族の館もありました。 これらは、越後と関東をむすぶ道すじにあり、 関東方面からせめられた時、越後の守リロとして大事な役目を持っていた場所なのです。 なかでも坂戸城は、上田庄をおさめる中心として政治を行い、戦いの時には本城として 大きなカをめしてきました。 このころ(中世)の城は、戦いの時敵のようすを見わたすため、 低い山の頂上や峰に見張り所を作り、戦の時は、そこにたてこもりました。 ふだんは山の・ふもとの舘に住んでいるものでした。 天守閣のある城はもっと後の世のことです。
天文二十年(1551年)、坂戸城主長尾政景が上杉謙信にしたがうようになり、 政景の死後、景勝が謙信の養子になって春日山城に入ると、坂戸城は謙信の家来の武将たちが 代わって城を守りました。 謙信が死んでそのすぐ後に起きた「御館の乱」の時には、その坂戸城を中心にして 上田衆(上田庄の武士)がカを合わせて景勝をささえ、はげしく戦いぬいて 景勝方を勝利にみちびいたのです。
慶長三年(1598年)、景勝が豊臣秀吉の命令によって会津にうつされると、 代わって越前(福井県)から、堀直寄という武将がきて上田庄をおさめるようになりまLた。 12年後に直寄が飯山にうつると、坂戸城は廃城になってしまいました。 坂戸城は、関東からせめよせられた大きな戦いだけでも何回もあり、城の造りなおしや 修理を繰り返しながら、約200年余りも続いた戦国時代を代表する山城です。 坂戸城は昭和54年(1979年)に国の史跡に指定され、六日町が保存や整備の仕事をしています。
【坂戸城の由来】
坂戸城は南北朝時代(十六世紀後半)越後新田氏が築いたものでその後上杉氏の属城となり、上田長尾が興ってからはその本城となった。永禄七年(一五六四年)城主長尾政景の死去によりその子景勝が、上杉謙信の後嗣ぎとして春日山城に移った。上杉氏の番城であったこの城は慶長三年(一五九八年)景勝が会津に移ってからは堀氏の支城となり、直寄が在城し慶長一五年(一六一〇年)まで二六〇年間名城としてその名をはせた。 坂戸山山頂(海抜六三四メートル)の本丸、上屋敷、中腹の中屋敷、山麓の城主館、家臣屋敷の後などが完全に残されている。尾根を利用した大小の曲輪や壕跡が多く雄大な規模を持つ山城として日本でも有数である。城主館跡は南北一二〇メートル東西一八〇メートルの長方形で土畳や石垣をめぐらし南北に門跡があり、堅固不落の城として有名である。御館の乱での北条氏の攻撃、天正10年(1582)の織田信長の進攻にも屈しなかった。馬屋敷跡といわれる中腹の一本杉には上杉景勝と直江兼嗣の生誕の碑がある。
国重要文化財指定 昭和五四年
新潟県重要文化財指定 昭和二九年 二月 十日
所在地 新潟県南魚沼郡六日町大字坂戸